facebook

二一世紀の歌づくり

第一部~第三部まで、ザ・ビートルズからアリシア・キーズやアデルまでの歌を通じて、独自な日本語の歌詞で歌うことの練習(エクササイズ)を体験されたことと思います。
特に一九六〇年代、いまから五〇年以上前の時代に作られ、歌われたロック&ポップスでありながら、いまなお、燦然と名曲の名を維持している歌を、簡単に、日本人が歌いこなせるとは思えません。その意味を現実に(骨身に沁みて)お分かりいただくことも、今回のザ・ビートルズ・プロジェクトの狙いでもあるのです。
ビートルズの歌とは「黄金の音を奏でる」名曲群でもあるので、さまざまな歌手がカバーしてみるものの、成功例は(本当に)一曲もないのです。おもしろいことに、ポール・マッカトニー自身が、その後の音楽活動の中で幾度か「ザ・ビートルズ時代の歌」を歌っていますが、ただの一度も、かつての黄金の音を再現できたためしがないのです。
むしろ、ビートルズの歌は五〇年後の二〇二二年では、黄金の音に変わって、「ブリリアンカットのダイアモンド」のように(新たに)編曲されながら歌い継がれることが大事だと思うのです。
二〇〇〇年を迎えた二〇年前には、すでに大衆系音楽の分野で混線状態に近く「様様なヒュージョン」が飛び交っており、さらに二二年後の「いま」では、ポップスもロックもバラードもブルースでさえ、自分自身の定型を持ちえず、さまざまに細かくセグメントされ、多様な側面を強調する歌の世界へと変化しており、その実態を喩えれば「ブリリアンカットの耀き」こそが、これからの(広い意味での)ポップスを先導することになると思います。「多様性からの集約」こそ、創造力の源でもあるからなのです。
その潮流に従って、歌の歌詞それ自体もラップの形式から、ロックの屈折、メロディの甘さを絶ちえ切る意味でのクールな思想の表現など、必ずしも幸福でなく、平和でもなく、コロナウイルスをはじめ疫禍の拘束を強いられている社会の現実、さらに圧倒的格差が固定しはじめた中での希望の喪失、夢と言いながら実態は「AI化されたヴァーチャルリアルな非現実」でしかなく、とりわけ二〇二二年から三〇年、この近未来の状況を「どのように把握して歌の本質へと変えてゆくべきか」 ― 真剣な取り組みが求められるはず。
敢えて、日本語の立場から、歌の形式(楽曲符)ではなく「歌の内容=コンセプト」の洗練を目標に、歌手と観客の関係を変えてゆくべき時期が到来しているのではないでしょうか。
つまり、軽く歌うこと、心地よい音を伝えるだけでなく「歌詞をベースに楽曲を添わせる」歌の作り方、歌手たちも上辺だけの歌い方で歌詞の内容を滑らせるのではなく、そしてコンサートや音楽フェスの歓声に自己陶酔するだけではない、ポップスの方向を考えたほうがよろしいかと思うのです。
日向 あかり